徒然日記 野良仕事

農的な暮らしで自分を壊し立て直す

今「自分を壊す」ということが必要だ。

日夜放送されている米国の行為や、ニュースを見ていても思うことだが、年齢とともに知らずに執着してしまう心、固まってしまう心、固定概念に満ちた心がある。その動きに目を凝らして、見たくない塊のようなものをちゃんと見れば、次のようなことが少なくとも僕には思い当たった。

「あなたは世界を見下していやしないか」

自分がはっきりと意識していないところで、僕は他者を見下しているのかもしれない。これはおそらく、自分自身を守る術として身につけてきたのだろう。いつまでたっても弱いから、無意識に他の誰かを否定して、自分より下に位置付けたりする。そうやってお山に登った大将のようにして、安心しようとしているのかもしれない。でも実際にこんな安心は一時凌ぎに過ぎない。こういった自分を見つけたとき、自分自身にぞっとする。ゲームや映画やらで登場する魔物にたいして、息を潜めて恐れていたけど、見えない魔物は自分の中にいるわけだから。

ある意味で人格的に崖っぷちの自分が、取り組んだのが”農”だった。こういうことは不思議と、自ら意思して、というよりは、啓示のように、自然の運びでやらずにいられない状態になってくる。私の場合はそうだった。吹いた風に応じたように、農的な暮らしに向かっていった。

自然農の我が畑

”自然”を相手にすることは、思い通りにいかないことはもちろんのこと、ちゃんと”呼応”しなければどうにも転がらないところがある。天候に抗ったって作物は育つわけがない。また、菌類や微生物の仕事に目をむけ、さまざまな生命点から見つめることが必要にもなる。作物それぞれに差異があり、補い方にも違いがある。僕の場合は無農薬で化成肥料も使わないが、米糠という材1つとっても、どんなときにどんな作物に影響を与えるのか、その個性が違う。いちいち説明書を読むことも、手が土まみれだと叶わないから、やってみて実際に失敗していくことも多くなる。

そうこうして農的な暮らしで3年経ってくると、中心に座っていた自我のようなものが、外側へと向かっていく感じを受けている。外、というか、周縁に自我がほどけていく感じだろうか。自分という存在が、それほどしがみつくほどのものではなくなっているというか。

いつかは僕ですらなくなるのだから。
だから今は僕を楽しもう。

全体に生かされている、とほんとうの意味で腑に落ちる感じは、私の場合はこのような農の実体験、すなわち”体”からだったのだろう。

収穫できたイチゴとトマトたち
無事に根付いたスイカ

今、畑に立っていると、鳥や虫や風や気温や、いかにさまざまなそれを取り囲む条件が、作物1つ1つに働きかけて生かしてくれているのかを想像するようになる。”私という作物”も、おそらく同じで、いかにさまざまな取り囲む環境やらから作られているのだろう。そう思うと、自分をコントロールしようとする意識も、それほど強くなくなっていくように思う。

-徒然日記, 野良仕事

© 2026 色彩自然学ブログ「デモーニッシュ」 Powered by AFFINGER5