ゲーテ色彩論 徒然日記 色の本質

色彩教育の意味

何度向かい風にあおうと、やっぱり私は,
心と体が生き返るような、
色彩教育を広げていきたい。
という話。

私はほんとうに子どものころから、
どうしようもなく
自然に向かっていたし、
自然から離れられなかったのだと思う。

たとえどんな都会の
コンクリートに囲まれたところに住んでいても
子どもという生き物はどうにも自然とつながってしまうもので、
それこそ無意識やら本能やらの領域とされるものの引力で、
自然界のいろいろと響き合うようにできていると思う。

大人になるにつれて、そこから離れていく。
そこが私は
スムーズにはいかなかった。

隙を見つけては外に出て地面をほじくってみみずを見つけたり、
隙を見つけては砂場で泥団子を作っていたり、
隙を見つけては通学路のつつじの花の蜜を吸いまくっていたり、
隙を見つけては人の家のはたに生えている椿のつぼみを、1層ずつ剥いてみたり
隙をみつけては地蜘蛛と呼ばれていた蜘蛛を袋ごと取り出して興奮したり

私はそんなに隙を見つける必要があるほど
過保護に育てられたわけではないけれど、
子どもたちがいつでも大人たちの決めていることの隙間をぬって、
何かを探していることは知っている。

中学の多感な時期に、
起立性調節障害という不可解なものに、私は心身ともにまいったことがあった。
朝起きたくても起きられない、
食べたくても食べれない
体が都合をきいてくれない。
気持ちと体が裏腹で、もうどうしていいかわからない。
学校に行って、帰ってくるのがやっとの日もあった。
ドアを開けて、玄関のところで、倒れ込んでしまう。
そういうときはたいがい肩で息をしていたし、
呼吸がうまくできていないことを思い出す。
今もパニックになるときは、その名残がある。

自分の器にふさわしくない責任のあることをやっていた。
阪神淡路大震災もあった。
”ねばならない”が私を追い詰めていたように思う。

自然というのは、正しさがない。
このことは私の人生を賭してこの仕事を選び、
心に刻むことになった発見で、

私にもきっと正しさはない。
私の生き方にも、正しさなどない。
父や母の生き方にも。
誰かが諭す正しさが
私にとっての正しさになるわけではない。

そういう個人個人にある
それこそ自然の虫や花やそれぞれにある
”道”のようなものに、
私は激しく共感し、勇気づけられている。

私にはなんの取り柄もない。
それこそ、自然を追いかけることしかできない。
でも、この日本という足元で、
AI化が進むような現代だからこそ、
もう片方の車輪として古来からあったはずの”自然とともに生きる心”を、
色彩自然学から得られる色彩教育として
広げていきたいと強く思う。

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