ゲーテ色彩論 徒然日記

真面目からの脱皮

まるでこんなタイトルにしていると、自分が真面目であることを自覚していることが、真面目でないように感じるが、私はどちらかというと父譲りの真面目さがある。朝6時に家を出て夜10時頃に帰ってくる生活を何十年と続けていたサラリーマンの父は、もう今はあの世に行ってしまって3年になる。あの世の時間感覚というのは一体どんな具合のものなのだろう、と最近考えてみることが多くなった。逝かねばわからないことだし、考えてもわからない不毛なことなのだけれど、この世で足りていなかった私と父の会話が、少しでもそんなことで満たされればと願ってしまう。

さて、2025年からようやくこのブログに手をつけていける気分になってきた。もとより社会に発信する必要があることなのに、社会に発信する気持ちがおこらない、そんな矛盾が、私を蕾む方向に追いやった。ブログ自体を立ち上げたのは随分前のことだが、さまざまな渦中に入ってこじれていって、それがくるところまできたがゆえなのか、最近逆にシンプルになってきたように思う。私はどこにも属さず、野に咲いた花のように、動きの相当おそいゾウムシのように、野辺で、搾取されない場を選びながら、この活動を続けていることがきっと必要なのだと思う。

真面目であるということは、時に光であり闇である。
真面目でないということも、時に光にもなれば闇にもなる。
どちらかが光になればどちらかが闇になると考えられた場合、私はきっと”真面目でない”という側面をもっと尊重していいのだと思った。そうすればどちらもがまた活きてくる。

学生たちはいつも、光と闇のことを考えることに、生き生きとしてくる。それは、日常的ではない話なのだけれど、きっとその日常的ではない、根源的な深い次元のことだからこそ、矛盾するものごとの中身を考えられるし、あべこべ感や一方が他方になってしまえることが起こることも、腹落ちすることがあるのではないかと思う。それが言葉になろうとならなかろうと、感覚的にわかってしまえる。頭でわかることよりも、感情がそれをわかること、心がそれをわかることのほうが、”学ぶ”ということではないかと私は思うことがある。

自分のスタンダードがどんどんかたまってしまいそうな40代、それをかたまっていくそばから、喜んで壊していきたいと願う。それを教えてくれるのは、いつも講義で出会う大学生たちだ。

ホウレンソウと、ベビーリーフが私の家の小さな玄関先のスペースで芽吹いてくれた。こういうのと一緒に生きていると感じるだけで、ほんとうに力強い気持ちをもらえるのが不思議だ。そういう芽吹と、学生たちの感性は似ているなと思う。

玄関先のプランター栽培
ホウレンソウ

オンライン講義は200人ほど今回はいるのだが、カメラOFFが通例だと誰に何を話をしているのかがわからなくなってくる。まるで私が独り言を言っているような世界観ができてしまうことがある。それをどうにか彼らを感じるためにチャットなどで工夫してコミュニケーションしたりするわけだけれど、なかなか大変だ。でも、私はどんな状況下でもきっと彼らのうちなる自然を信じるしかない。それしかできない。響き合えるものは彼らの中に必ずある。それは今回も、やっぱり信じてよかった。

大学講義のときの私のデスク

そして、私は大晦日からコロナにかかり、ウィルスとも仲良くしてしまい、寝込んだ。そしてじょじょに復活してこれを書いている。元日も真面目に元日できるわけもなく、やっぱり何かが、私を今までとは違うやり方でやっていくように仕向けている気がする。真面目から脱皮していくのかもしれない。

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