ゲーテ色彩論 色の本質

「青の色彩自然学」序論

青が生起する条件

青色が生まれる条件とは、日常でもどのように感じられるだろうか。
ゲーテの色彩論より、青の記述を抜粋する。

『一五一 くもった媒質に光を当てて、それを通して闇を見ると青い色が現れる。媒質のくもりを増せば増すほど青色はますます明るく淡くなり、逆にくもりが透明になればなるほど、青色はより濃くなり、飽和性を増してゆく。それどころか純粋なくもりが最小の段階にまで減ずると、青色はいとも美しい紫色に感じられる』

ゲーテ,色彩論 教示篇 物理的色彩 151

簡単に言えば、光の中から見る闇は青いということをまず彼は伝えている。

もっと簡単に言えば、以下のような色彩現象がもっとも身近に青を感じるものになる。

青空は、光のなかから見た宇宙の闇である

ポイント

昼間私たちが見上げる空は青い。

これは、何が青く見えるかというと、「宇宙の闇」を光の中から見ているから青く感じるということになる。

この闇までの媒質のくもりが高くなれば空は水色になって見えるし、
逆にくもりが透明になれば、青は飽和性を増して濃く深く見えてくる。

そして、さらには、その媒質の中にあるくもりが純粋化されていき、
くもりが最小の段階にまでなると、青色はむしろ、美しい紫色に感じられてゆく。

この一連の様子が青、つまり闇なる色の生起している特徴と、紫へと変容してゆく
本質的な特徴を捉えている。

「闇」とは:青の抱える根本原理と黒

全くの闇のなかでは生命は続かない

「光あれ」という言葉で天地創造が始まったことは有名な話であるが、
世界においても個人においても「光」と「闇」が「分かれること」が、
ことのはじまりとなることは、他のところでも述べてきた。

(参照ブログカード”光と闇の分離。分極性関連”を挿入箇所)

光という一極の誕生から、闇という他極が誕生し、
その分極性の葛藤により世界は活気づき、反発しあいながら自ずと発展してゆく。

青が生起するのは、闇のすぐそばである。

そのずっと向こう側には「黒」があり、ゲーテの色彩論においては「黒」は「闇」と同義とされている。
しかしながら、私たち人間は全き闇のなかで生命を育むことはできない。
つまりこの世は、全き闇や全き光を体験しえない。
本質的な黒色は、わたしたちが経験することができない神の領域の無彩色なのである。

この「全き闇の色」であり、私たちが知り得ない「黒」と、
中間世界を生きるなかで私たちが経験できる「青」を
ゲーテは区別し、無限の生命としての私たちが観察し経験できる闇を、「青」とおいた。

闇のすぐそばに生まれる青は、くもりや翳りを多く含み、
光のすぐそばに生まれる、汚れのない黄とは相容れる余地のない、全く正反対の関係性にあるものである。

これら2色の色を、根本現象として、あらゆる色彩はその反発や葛藤をもとに自ずと創造されてゆく。

このあたりの理解には、ゲーテの名言「色はつまるところ、黄と青のみである」の解説を参照されたい。

(参照ブログカード”色彩はつまるところ、黄と青のみである”を挿入箇所)

「色彩は光の行為である、行為であり受苦である」から
青の考察

『色彩は光の行為である、行為であり受苦である』

ゲーテ,色彩論序論

上記の言葉は、色彩論の序論に書かれている、色彩研究者にとって非常に価値ある有名なゲーテの記した一文である。

この一文の解説は、以下を参照いただきたい。

(参照ブログカード”色彩は光の行為である、行為であり塾である解説”を挿入箇所)

青という色のなかにも、光と闇が戯れている。

「色彩」を「光の行為」であり「受苦」である、としたゲーテの言葉からすれば、
青色に働く「光の行為」とは、いかばかりだろうか。
おそらく、黄とは対象的に「光の行為」は少ないものであることが考えられる。

むしろ、青という色彩は、光にとっての行為側ではなく、闇にとっての受容側である姿勢が見出され、
寛容さ、広さと同時に、混沌、鈍重、暗さのような二面的要素を青に経験することになる。

また、闇のすぐそばに表れる青は、光と同様に細分化し得ない至高のエネルギーである闇にもっとも近しい間柄で、
我々の来し方行く末を暗示し、生命の源泉をどこか漂わせ、霊性の宿る色彩として畏れ多く感じられる。

怖さと、安らぎという相反する様相を青に感じる。
これは、闇と同型の我々の心の要素「無意識」にも関連する。

(参照ブログカード”青の心理学解説”を挿入箇所)

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