最近の暁の空は、冬の寒さでよく澄んでいて、うっすらと紫がかって広くおおらかできれいだなと思う。神戸の空では、およそ6:40頃だろうか。
夜明けときけば、暗闇がただ白んで明けていくだけで、そこにまさか紫が生まれることなどないだろう、と大抵の人は思っている。かつて、色を学んで自然を観察するまでは、私もそう思っていた。
でも、やっぱり闇が明けるということは、闇からすればとてつもない儀式なのであって、ゆずれないものを愛のためにゆずっていくことであろうと思う。
そこに赤という独特の輝きが生じてくることは、なんとも心を温めるし、毎朝毎晩そういったやりとりが生まれていることに、ただただ頭が下がる。
46億年前、太陽系が誕生したときから、私たち生命たちは、夜明けや日没を、繰り返し繰り返し経験し続けてきた。そこには、私たちが今血眼になって求めているような進歩など、まったく関係がない。進歩や進化など必要のない、永遠の呼吸が続いている。その永遠の繰り返しの中で、循環の時間の相の上に、私たちは生きている。これが生命の原点ではなかったか。