鳥を好きになったのはいつからだろう、覚えていない。
大きく広がる寒空の中、水流のただ中に、そろりと立つ鳥がいる。
なんだかその佇まいを見るだけで、少しの元気玉のようなものがもらえるのは私だけだろうか。
鳥が追いかけるようになって、表情を見たいから望遠カメラを貯金をかき集めて買ったものの、若干の「見なきゃ良かった」と思えるほどの無表情さ。
それもまたいい。
どこから飛んできたのかわからないし、どこの海洋を横切って渡ってきたのかもわからないし、何を見て、どんなことを考えているのかさっぱりわからない。そんな表情がまたいい。
望遠レンズをのぞきながら、「またそんな目して」と言いながら、鳥にはそうであってほしい、となんとなく思っている。鳥には太古のむかしにいたはずだけれど、私たちが経験することができない恐竜時代が透けて見えて、それがまた好きな理由なのかもしれない。
2025年新年、初めての日曜日は鳥に会いにいこう、と決めていた。
会いたかった百舌鳥にも会えた。
朝方の1時間ほど、川沿いを歩いた。何種類会えただろう。歩き出すそばから、ヒヨドリの声がひっきりなしに聴こえていて、「久しぶりやんけ」「今日はさむいで」って言っているように聴こえた。
私は鳥と会話したくて仕方ないから、歩きながら唇で「チッチッチ」と音を出したり、「チーチー」いったりして鳴き声をまねながら歩いてみる。
鳥は「誰やその声」と振り向いてくれて、目が合うことがある。この写真は100%私と目が合っている。この百舌鳥は私をひとときかもしれないが、認識したに違いない。そういうことが嬉しい。「おはよう。」「また会おうな。」鳥とは、出会ってすぐ別れることがほとんどで、何度か出会ってるかもしれないけれど、それがわからないこともほとんどだ。「ごめんね」と「ありがとう」を重ねて生きている時間に似ていやしないかと思う。
途中ジョウビタキのオレンジ色を見つけて(左)、「会いたかったよ」と観察し始めたら、気づけばストーカーのように追い回してしまっていて、ジョウビタキは向こう岸に逃げていき、怒った顔(右)をしている(ように見える)。ごめん。
夢中になってしまうと、いろいろと忘れてしまう。
ゴソゴソと向こう岸で音がして、静かにして数分、目を凝らしていると、ヒクイナに初めて会えた。
目が、紅い。
鳥を探して川沿いの木々を見ながら歩いていると、ふと草原のように広がった空に気づくことがある。
わけもわからず、理由もなく、「歩いていこう」と思っている自分に出会う。昨日は落ち込んでいたのに。
びしょびしょの獣の背中も、なんどか見た。もう顔を見なくてもわかる、ヌートリア。家族連れで歩いていることもよくある。
私は鳥が好きな中でも、鵜とウグイスとカワセミと鶫が好きで、ウグイスはいつもすばしっこくて小さいのだけれど、今日も出会えた。メジロや鶫にも会えた。
この世界には鳥たちがいる。
空を飛び、喉を鳴らして、実や種を運び、川をわたり。
それぞれの足場で、鳴きながら、歌いながら、仲間を呼び合い、危険を知らせあい、生命をつなぎ続けている鳥の姿が、今年も力強く私に響くことを感じている。